軌跡




軌 跡


 私は小さな頃からパイロットに 憧れていた。しかしその気持ちは、ただ飛行機を操縦してみたい、カッコイイ、というごくありふれた、 男の子が一度は憧れるというようなものだった。ただ、乗り物の運転には非常に興味があり、 幼稚園時代の自転車から始まり、バイク、車、何でも思い通りに乗りこなすのが快感でたまらなかった。 特にバイクは私の欲求を満たすのに最高の道具であった。サーキット走行、トライアル、オフロードなど 出来る限り様々な種目にトライした。大きな排気量のバイクをまるで自転車を乗るように駆る。そんな時、 自分が何か特別な能力を持っているかのような気持ちになるのであった。また、機械が持つ美しさが好きで、 剥き出しのエンジンや流れるようなデザインを持つバイクが好きだった。しかし、飛行機の方がもっと 好きだった。ジェット戦闘機の写真を見ているだけで何時間でもつぶす事が出来た。 そして高校を卒業する頃になると、航空大学、航空学生、自社養成、一応一通り試してみたが、 結局パイロットへの道は開けなかった。家庭の事情から航空留学など考えることも無く、 結局私の進路から航空業界という選択肢は消えて行った。

 社会人となり数年たったある日、私は出張で1週間米国テキサス州のダラスへ行く事となった。 一日だけ自由な時間があったので、ホテルの部屋に置いてあった周辺の案内で航空博物館を見つけ、 先輩と二人で暇つぶしに出かけて行った。そこはいわゆる軽飛行機専用のMunicipal Airportで、 アメリカでは何処の街でも大抵一つか二つはそういう空港が有り、たまに古い飛行機や払い下げの戦闘機の コレクションを飾った小さな博物館がへばりついていることが有る。そこで第二次大戦時代の戦闘機の デモフライトが行われていて、私は「俺にも乗らせてくれ!」と頼んだら、「ダメダメ!どうしても 乗りたいなら隣でセスナをチャーターしな。」と言われ、隣のパイロットスクールでセスナを チャーターする事になった。私は先輩を後ろに座らせしっかりと操縦席に座っていた。そして、 離陸するとすぐパイロットに「お前が操縦しろ」と言われ、予想外の展開に私は驚くやら嬉しいやら、 とにかく生まれて初めての飛行機操縦をする事になった。大袈裟だがこの時「今まで生きてて良かった」 と本当に思った。ダラスとフォートワースのダウンタウン上空を旋回し、小一時間の飛行中ずっと 操縦桿を握り締めていた。


Loui

 それから数年が経ち1999年夏、 私はサンディエゴへ転勤となった。初めて新しいオフィスへ出社する道すがら、近くに広大な空き地が あるのを見つけた。もしやと思いそこへ行ってみるとやはりそれは空港だった。モンゴメリーフィールド である。転勤後しばらくして生活も落ち着いた頃、私はダラスのことを思い出し、きっとここにもスクール があるに違いないと空港へ出かけ、敷地を一周しGIBBS Flying Serviceと壁に書かれたそれらしい建物を 見つけた。勇気を出して中へ入り、おどおどしながら辺りを見まわしていると一人の若い白人が 「何さがしてるの?」と話し掛けてきた。私は「パイロットの免許を取る為の情報を探しているんだ、 スクールのパンフレットとか...」と答えた。すると彼は「スクールなんて入る必要無い、 俺が教えてやる。」と言って、私を近くのパイロット用品屋へ連れて行き、テキスト2冊と問題集1冊を 選び「これを勉強するだけでOKだ」と言った。私が「えーっ!これだけ?」と疑いながら聞き返すと彼は 「そうだ」と自信を持って返事をした。これが私と私の最初のインストラクターLouiとの出会いだった。 結局私はLouiに言われるがままにテキストとログブックを買い、彼と航空身体検査をしてくれる医者の 電話番号をもらって帰った。こうして私のエアマン人生は始まったのであった。

 それは全くゼロからの出発だった。エンジンのかけ方すら分からないのである。これまでの乗り物は キーを回すだけでエンジンが掛かったが、飛行機には沢山の手順があり、全てチェックリストを見ながら 漏れが無いように順を追って進められていく。漸く走り出しさあ曲がろうと思ってハンドルを切るように 操縦桿を回しても向きは変わらない。必死でコントロールしようとする私をあざ笑うかのようにセスナは 蛇行する。管制塔は何を言っているかさっぱり分からない。飛んでからも水平飛行をしたいのに上へ下へと どうしても高度が定まらない。今思えばよくもまあLouiはこんな奴に操縦させたと思う。飛行機の インストラクターはよっぽど度胸がないと出来ない商売だと思う。しかしそれでも楽しかった。 まさか飛行機の免許を取るチャンスが巡ってくるなんて夢にも思っていなかったので、 飛んでいる時は勿論、トレーニングの無い日も次のトレーニングの事を考え「自分は飛ぶ事が出来るんだ」 と思うだけで幸せな気持ちに浸れた。しかし、地上に降りるとLouiとの意思の疎通もままならないこんな 英語力で本当に免許が取れるのだろうかと不安になる事もあった。結局、管制塔との交信の訓練の為に チャンネルスキャナー(航空無線の入る受信機)を買い、交信の為のテキストを買い、 フライト中地図を挟んでおくニーボードを買い...テキスト3冊で済むはずが、 日本円で言えば万単位でお金が出て行った。なんだかんだ言って最後にはカバンにいっぱいになるくらい 色んな物を買い揃える事になっていた。

 飛行時間が15時間を過ぎたころからうっすらと交信内容も分かるようになってきた。 水平飛行も出来るようになり、後は着陸が安定したらソロフライトだと言う事になった。 「次回もし4回連続で良い着陸をしたら次はソロだ」と言われてから、その後悪天候が続き、 次こそは次こそはと言っていたある日、Louiが「Ike、悪い知らせと良い知らせがある」と言った。 何かと思えば悪い知らせとは彼がとある航空会社に就職する事が決まり直ぐにも引っ越さねばならない ことだった。呆然とする私に彼は新しいインストラクターを紹介しそれが良い知らせだと言った。 Louiはとても良い奴だった。彼が居なければ飛行機に乗ることも無かったかもしれないし、 なんでも親身になってくれて本当に良い奴だった。特に気に入ったのは彼がセスナをまるで自転車でも 運転するかのように乗ることだった。ある風の強い日に、「こういう時はこうやって着陸するんだ」 と言いながら、セスナをねじ伏せるようにしてクロスウィンドランディングを決めた時、 自分がバイクの乗り方を人に教えていた時の事を思い出した。ちょっとエンジンが掛かりにくいと 「かしてみろっ」と言ってスロットルをクイックイッとやっていとも簡単にエンジンをかけてしまう。 ほんの些細な事だけれど、彼がセスナという機械を思い通りに操る姿が頼もしくてカッコ良かった。


Ruben

 その後二人のインストラクターと飛び、 結局六ヶ月かかって免許を取った。予定では早ければ3ヶ月、遅くとも4ヶ月で取るつもりだったのが、 3人目のインストラクターRubenが余りにひどいやつで、結局6ヶ月もかかってしまった。 最後の方には免許を取るのを諦めようかと思った程だった。私が何も知らない初めのうちは良かったのだが、 トレーニングのステージが進むに連れて「なんだかおかしいぞ?」と思うようになった。 そのうち私が彼の間違えを指摘するようになり、最後には全く信用できなくなっていた。 思うに彼は臆病過ぎるのだろう。どんなマニューバーをする時も、彼は常に操縦桿とラダーに力を 入れていてコントロールをしているのである。あるとき私はフライトトレーニング中に操縦桿から 手を離し腕組みをした。何も問題は起こらなかった。私は彼に「危険を回避するのはあなたの役目だが、 あなたがコントロールしている限り私は永遠に操縦を覚えられない。自分の手で操縦桿の圧力を感じ 感覚をつかむのが大切だ、だから私一人で操縦させてくれ」と言った。 彼はうなずいて私にコントロールを預けたが、暫くするとまた元に戻っていた。 もっと困ったのは座学だった。彼は毎回私の前で1時間以上テキストを朗読した。 聞いていても全く頭に入らずただストレスが溜まるだけだった。そしてしっかり料金を取るのだから たまらない。全くのお金の無駄としか言いようが無かった。いつしか私は飛ぶことを考えると 憂鬱になるようになっていた。

 憂鬱から脱出するには最後の実技試験、チェックライドにパスするほかに道はなかった。 チェックライドにはオーラルテスト(口頭テスト)があり、多くの回答を英語で暗記しなければならない。 その暗記を長期間維持する事はとても大変だった。だから私は早くチェックライドを受けたいと言うのだが Rubenは拒んだ。チェックライドを受けるには彼のサインオフが必要なのを良い事に金づるを 逃がさないようにしていたように見うけられる。しかしもうこれ以上は維持出来ないというところまで達し、 駄目でも良いからチェックライドを受けさせてくれと言ったが、彼はのらりくらりと引き延ばすだけだった。 最後にはストレスが限界まで到達し、私は隣のクラブのインストラクターに相談を持ちかけた。 彼は快く代理のサインオフを約束してくれた。彼の助けを借りてチェックライドをアレンジし、 もしRubenが現れなかったら、ひと通り各ステージのチェックをしてサインオフをしてくれることになった。 結局、Rubenは現れた。チェックライドがアレンジされた事を知るとノコノコと空港へやってきたのである。


Steven

 様々な苦労の末漸くチェックライドにこぎつけた。 前日はゆっくり眠るつもりだったが結局緊張で3時間ほどしか眠れなかった。当日の朝、 Rubenとメンテナンスレコードの最終確認をしていたら、なんとエンジンの検査の期限が前日で切れている 事が判明した。あわてて整備工場に電話してその場で検査をしてもらった。 結局、試験官のStevenが3時間ほど遅れてきたので、十分対処する時間があり事無きを得たが、 幸先の悪い始まりだった。しかし心配していたオーラルテストも殆どの質問に答える事が出来、 ランチを取りながら和やかに終わった。それはテストと言うより世間話に近かった。 彼は現役の777のパイロットで、問題の合間に彼の体験談を交えて解説してくれたりして、 とても楽しいひとときだった。しかもStevenは遅れてきたお詫びにとランチをおごってくれた。

 ランチを食べ終わると我々は飛行機に乗りこみ出発した。さほど緊張することも無く、 無事離陸して隣のラモーナ空港へと向かった。まず最初に緊急着陸を課せられ、 着陸寸前でゴーアラウンドしパターンに乗った。次にショートフィールドランディングを課せられ、 ベース、ファイナルとエアスピードも基準以内で順調に滑走路へと降下して行った。そしてタッチダウン、 が、次の瞬間機体が大きく振動した。私は前輪が地面にヒットしたかと思い反射的にエレベーターを 引いたが、Stevenがそれを制止しながら「違う、パンクだ!」と言った。彼はすぐに機を停止させ外に出た。 右のタイヤがぺちゃんこになり、我々の飛行機は一本しかない滑走路のど真ん中で斜めに止まったまま 動かなくなってしまった。その時のStevenの迅速且つ的確な対処はとても素晴らしかった。 さすが現役777機長は違うなあと実感した。

 パンク修理には2時間ほどかかった。その間私は気を揉みながらセスナの傍らに佇んでいた。 パンクは私のせいではないが、印象が悪すぎる。それに時間も無いしチェックライドは 続行できるのだろうか?そんな心配をよそに修理が済むとStevenはチェックライドを再開した。 彼はその後アポがあったらしく、チェックは急ぎ足で進行していった。最後には「俺に貸せ」 といって彼の操縦でモンゴメリーに帰ってきた次第である。パンク修理で時間が足りなくなったのは、 逆に良かったのかも知れないと思った。クラブルームで向き合うとStevenはおもむろに右手を差し出し、 「Congratulation」といった。私は彼の右手を両手で握りしめ「Thank you so much!」と答えた。 彼はその場でテンポラリーライセンスを発行し私に手渡した。その瞬間私はパイロットになったのである。 たかが自家用飛行機の免許ではあるがパイロットはパイロット、一度は捨てた夢を叶える事が 出来たのである。この日はとても長い一日だったが今までで一番嬉しい一日となった。


感謝

 アメリカで一般的な生活をしている人にとって、 Private Pilotのライセンスは日本でいえば普通自動車2種免許のような、大して難しくはないけれど、 必要が無ければ取ろうとも思わない、そんな存在かも知れない。しかし、我々日本人にとってはVISA、 言葉、その他諸々の条件により、まずアメリカで生活する事自体が大変なのである。 私の場合社命で滞在しているので恵まれているが、どこの会社でも誰もがアメリカに転勤 できるわけではないし、アメリカに来たからと言って飛行機の免許が取れるとも限らない。 事実私はサンディエゴに来る前にサンノゼで3年ほど暮らしていたが、私を取り巻く環境は 飛行機の免許を取れるようなものではなかった。そう考えるとやはりこの免許は日本人にとっては 誰でも簡単に取る事の出来ない貴重な免許であると思う。私は私をここまで導いてくれた方々、 そして私の夢を理解して支えてくれた家族に感謝したい。






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