その後 経験 Private Pilot Licenseを手にした私は一人で何処へでも飛べるようになった。しかし、つい昨日まで免許を持っていなかった のも事実で、免許を取ったからといって十分に安全な訳ではない。チェックライド合格は単なる通過点であるという言葉を何度も 耳にしたが、実際に自分で免許を手にするとその意味が身にしみて分かった。暫くはとても人を乗せて飛ぶ気にはなれなかった。 免許を取ってから何度か一人で飛んでみた。一人で自由に飛べる日を待ち望んでいたはずなのにコックピットで感じたのは孤独 だった。免許を取った後も空でやることと言えばフライトフォロイングでATCの訓練をしたり、勝手にILSをトラッキングして IFRの真似をしてみたり結局訓練の延長でしかなかった。すこし足を伸ばして片道2時間くらい掛けて遠くの空港に行ってみたり、 知らない空港へ行ってみたりしたが、そこに何があるわけでなく給油してFBOで一休みして帰ってくるだけだった。そして段々 ただ飛ぶだけでは面白くなくなってきた。 夏休みになり家族でユタ州に住む家内の友人宅を訪問する話が出た。サンディエゴから車だと6〜7時間かかる。軽飛行機なら 3時間ちょっと。まだ不安はあったが家族を乗せて軽飛行機でユタ州まで飛ぶことにした。途中給油でLoughlingに立ち寄り無事 St.Georgeに到着。ついでにBCEまで飛びBryce Canyonの絶景を見て帰ってきた。車で同じ場所を訪れるには毎日走りっぱなしで ろくに観光する時間も無いところだが、余裕で観光する事が出来る軽飛行機の機動性に気がついた。家族は最初安全性に不安を 感じていたが次第に慣れてきて、飛行機で飛ぶことを楽しめるようになってきた。以後、我が家の家族旅行は軽飛行機で行くのが 定番となった。私はいつ日本へ帰任になるか分からない日系企業の駐在員なので、出来る時に出来る事をしておこうという方針で行動 していた。だから我が家ではアメリカにいるうちに出来るだけあちこち旅行しようと思い、連休の度に旅行を計画し出かけていた。 一人で飛ぶときは飛行機のレンタル料を自分の小遣いで賄わねばならないが、家族旅行であれば家計の出費にすることが出来る。 家族が楽しめて私も飛行時間を稼ぐことが出来て一石二鳥だった。 飛行機で出かけても現地でレンタカーを借りないと行動が出来ない。準備にかかる時間などを考えると車で2時間くらいの距離 であれば自宅から直接車で行ったほうが便利である事が分かった。しかし、それよりも遠いところは圧倒的に軽飛行機の方が便利 だ。カリフォルニア、アリゾナ、ユタは砂漠が多く、車だと5〜6時間かけて遠回りしなければならない所も軽飛行機なら真っ直ぐ 砂漠を飛び越えて2時間くらいで行くことが出来る事もある。私は毎月のように家族でクロスカントリーフライトに出かけた。 グランドキャニオン、ブライスキャニオン、ペトリファイドフォレスト、メテオクレーター、セドナ、マウントラッシュモア、 イエローストーン、ホワイトサンズ、ラスベガス、サンフランシスコ、サンノゼ、そしてついにアメリカ大陸を横断してニューヨーク まで飛んだ。その次は国境を越えてメキシコのバハカリフォルニアへ飛んだ。 IFR クロスカントリーを重ねていくうちに一つの必要性が生じた。それは計器飛行の資格を取得する事だった。連休がいつも晴天とは 限らない。目的地までの距離が段々長くなっていくに従って日程が天気の影響を受けるようになってきた。何度かギリギリの条件で 雲の上を飛び越えて目的地まで飛んだ事もあった。なんとか目的地の空港の天気が回復して着陸する事が出来たが、下手をすれば 隣の空港へDiversionしたかも知れなかった。そうなればホテルの予約も翌日の観光も全て変更せねばならない。そのストレスは 予想以上に大きかったが逃れる事は出来なかった。もう近場は殆ど行き尽くしたので、旅行するには遠くまで飛ばざるを得なかった。 ストレスなく旅行をするにはIFR(計器飛行)の資格を取らざるを得なくなった。 IFRはパイロット免許の中で一番難しいと言われている。どのインストラクターも口をそろえてIFRが一番タフだったと言っていた。 実際テキストの厚さも一番だし、免許取立ての自家用パイロットにはとても畏れ多いプロの世界という感じがした。クロスカントリー でストレスを感じる前から次に取得する資格として考えていたが、内容の難しさから訓練開始に二の足を踏んでいた。しかし、 ついにIFRが無いと飛べない状況になり訓練を開始を決心した。色々と考えた末、飛行訓練中のインストラクターとの意思疎通や 授業内容の理解度を考慮して日本人インストラクターに習う事にし、当時MYFにあったSAAで訓練をする事にした。 IFRは管制官の指示に従って飛ぶので、英語による交信を完璧に理解できなければいけない。操縦技術は何とかする自信があった が、ATC(管制官との交信)は自信が無かった。クロスカントリーでフライトフォロウィングを受けていたとはいえ、離着陸時の ATCの忙しさはフライトフォロウィングとは全く比較にはならない。私はテープレコーダーとケーブルなどを購入し訓練中の交信を 全て録音した。そして、管制官が話した一言一句全て理解するまで何度も繰り返し聞いた。どうしても分からない所はインストラクター に一緒に聞いてもらい教えてもらった。そして何度も同じアプローチを繰り返しているうちに、なんとかATCは出来るようになった。 アプローチの訓練を重ねるうち、ILSあるいはローカライザーで最後にCDIが振り切ってしまう癖がついてしまうようになった。 今思えば誘導設備の原理を理解していなかったのだが、それに気づかす暫くスランプに陥った。大陸横断の日程が来たので無理に チェックライドを受けさせてもらったが当然失格した。暫くしてもう一度受けたが惜しいところでまた失格となってしまった。 Examinerは私が誘導設備のコンセプトを理解していないのでは?と指摘した。IFRの訓練ではシミュレータが非常に効果的なので、 私は自宅でも訓練出来るようPCシミュレータを購入した。そして何度も何度も練習し間違いを修正すべく工夫しているうちに、 漸く自分の間違いに気づきスランプを脱する事が出来た。もう無理かと途中何度も断念しようと思った事もあった。 しかし、なんとか3度目のチェックライドで合格する事が出来た。2度目に落とされたときは正直Examinerを恨んだ。こいつは俺を 差別しているんじゃないかと考えたことも有った。今思えばなんと自分の心は弱かったかと恥じるばかりである。彼は私や家族の 命を救ってくれたのだと今は感謝している。 合格して直ぐに家族を乗せてLAXへ飛び、帰りにIMCとなり雲の中を何分も飛んだ。その後も長距離XCの後MYFへ戻ってくると マリンレイヤーに覆われていている事が何度もありIFRで着陸した。目的地は快晴なのにMYFは曇りなのでIFRで雲を抜けて離陸 して行く事もあった。それまで曇り空を見ると恨めしくて仕方なかったが、IFRを取得してからはむしろ楽しくなった。アプローチ で雲海の中に沈んで行く時、一瞬計器が信じられなくなった時、とてつもない恐怖に襲われる。その恐怖を克服して雲の下に出て 視界が開けた瞬間の充実感、達成感は他に代えがたいものがある。自家用の世界では出発から到着まで全てIFRという事はまずない。 離着陸の際に雲を抜けるだけという場合が殆どである。どんよりとした曇り空の下で離陸の準備をし、IFRの許可を得て離陸。 暫く目隠し状態で飛ぶと青い空の広がる雲の上に出る。管制官にIFRをキャンセルしVFRで真っ白な雲海の上を飛ぶ。 「あぁ、おれはこの為に生まれて来たんだなぁ。」と思えるひと時だった。 帰国 IFRでフライトの幅が広がり楽しみが倍増したのも束の間、ついに帰任の命が下った。気がつくと総飛行時間は400時間となり、 Commercial Pilotの受験資格250時間を優に超えていた。MYFのFBOにたむろしていたCFI何人かに聞くとCommercialは15時間も飛べば 取れるという。ならばせっかくだから取っておこうと訓練を始めた。結局15時間では収まらず2ヶ月掛けて合格。その間アクロバット も2回ほど経験させてもらった。最後にはCFIの訓練を始めた。これは殆ど思い出作りだった。6年半もアメリカに住んでいると、 日本に帰国することがどういう事なのかすっかり分からなくなっていた。いつでもまた戻ってこれるような気がして、自分は CFIになるんだと思い帰国までに取得しようと徹夜で勉強もした。グランド、フライトとも一応全ての行程を終了しチェックライド を受けさせてもらった。しかし、一夜漬けの知識では受かるはずも無く当然失格。2ヶ月以内であれば続きから受験できるという 試験管の言葉に「I'll be back!」と返事をした。しかし、2ヵ月後には満員電車で東京に通勤する毎日を送っていた。 CFIは取れなかったが学科テストのついでにグランドインストラクターの資格を取得しておいたので、日本からアメリカへFAAの 免許を取りに行く人向けに日本でグランドスクールを開いた。ウェブサイトを立ち上げると生徒が数人きた。中にはサインオフ した生徒もいたが、あまり需要は無くいつか問い合わせは無くなった。帰国してから暫くの間アメリカへ行く機会が無くなった。 丁度最初のBFRの期限の頃にオースティンへ出張する事になり、時間を作ってBFRをしてきた。その後も年に1度くらいしか渡米の 機会がなかった。帰国して直ぐに日本で飛べるかどうか調べたが、自分の収入ではとても飛べそうになく、またアメリカでのGA ライフがあまりに充実していたので日本の環境に魅力を感じる事が出来ず、結局身も心も飛行機から遠ざかってしまった。 現実 その後仕事の内容が変わり年に何回もアメリカへ出張するようになった。私はサンディエゴのフライングクラブのメンバーシップ をリニューアルし、ちょっとでも時間があれば直ぐに飛べるようにした。そして週末にかかる出張など時間に余裕がある時に フライトを楽しむようになった。私はまるで駐在時代に戻ったかのように錯覚した。BFRを受けたとは言えレギュレーションも ろくに覚えておらず、自分が何を忘れているか分かるはずも無い。しかし、自分は毎週飛んでいた時代と同じだと思い込んでいた。 ところがある日自分のポカミスでクラブの機体を傷つけてしまった。オーナーと保険の適用で揉め嫌な結果となってしまい、 もう二度と飛びたくないと思うようになってしまった。これまで自分にとって一番居心地の良い思いでの場所だったMYFが、 一番見たくない場所になってしまった。 ある時TVを見ていたらエアレースの様子を放送していた。イギリスの貴族の土地にコースを作って開催されTVでそのコースを説明 していた。広大な敷地の中に大きな屋敷があり、その玄関先から真っ直ぐ伸びる道路にはセンターラインがはっきりとペイント されており、その先に方角を表す二桁の数字が書かれていた。なんと玄関の前の道が滑走路になっているのだ。そこから離陸し 敷地のあちこちに立てられたパイロンをすり抜けて飛び、美しさやスピードを競うものだった。地面すれすれに飛ぶこともあり、 パイロットは何度か地面に引っかかって機体を壊したこともあると言っていた。それを見て飛行機は安月給のサラリーマンが乗る ものではなく、ああいうお金持ちが乗るものなんだなぁ・・・と思った。そしてもう飛行機の事は考えないようにした。 それからも何度かアメリカに出張した。長いときは一ヶ月近く滞在する事もあったが、飛行機に近づく事は一切なかった。 趣味 飛行機の趣味を無くしてから、仕事の憂さを晴らすのに何をしようかと色々と考えた。昔好きだったバイクでも買って弄ろうか とも思ったが、今ひとつ心が動かなかった。親の介護もあり結局大したことも出来ずダラダラと時間が過ぎていった。嫌な思いを してから1年がたった頃、また仕事の内容が変わりアメリカのフロリダに出張する事になった。そのときある思いが頭を擡げた。 これまでアメリカ出張といえばカリフォルニアだったので、とても飛行機の事を考える気になれなかった。どうせ飛んでも ただ飛ぶだけで面白い所へいける訳でもない。しかしフロリダは飛んだことが無い。嫌な事を思い出す場所も人もいない。 そう考えたら無性に飛びたくなった。私は早速出張先周辺のGA空港を幾つか探し情報収集を始めた。そしてMLBのパイロットスクール を見つけた。 羽田で2回目のメディカルをもらいフロリダへ飛んだ。メールでは予約できなかったので直接スクールへ行って見た。その時期の フロリダは雨が多く、その日も降ったり止んだりだった。結局やっと夕方に機体とCFIの都合がつきBFRを受ける事が出来た。 天気が悪化したらいけないので先に飛ばせてくれと頼むとCFIは了解してくれた。しかし、1年ぶりで知らない空港で、滑走路が 3本もある大きな空港だったので、グランドやタワーが言っている事が分からなかった。結局ATCはCFIがやってくれて訓練空域へ 行きひと通りエアワークを済ませ空港へ戻りグランドを終了。私のパイロット資格は再び有効となった。BFRのためにたった1時間 飛んだだけだったがとても面白かった。初めての場所で久しぶりのフライトは飛んでいるだけで楽しかった。 エアワークの最中CFIが教えてくれる姿をみて、自分がそのレベルの近くまで行っていた事が信じられなかった。同時にすっかり 操縦の仕方を忘れている事を思い知らされた。しかし悔しさや絶望感は無かった。むしろ楽しかった。今、やっと自分が見える ようになった。そして飛行機を飛ばすためにやらなければいけないこと、守らなければいけないこと、どうやって楽しむべきかが 良く分かった。また、自分にとって飛行機が一番楽しめる趣味である事も良く分かった。これからは無理せずレギュレーション、 ルール、プロシージャーに沿って、機会があれば出来る限り飛ぶことを楽しんで行きたいと思う。 「飛ばない豚はただの豚」 |
2007-11-24 |